祖父が、死んだ日。
少年は、旅に出た。
一頭の、牛を連れて。
背中に、かご一杯の真綿を積んで。
山にはまだ
雪が残っていた。

少年の名は、ナデル。
それは、祖父がくれたなまえ。
空のかなたに白い鳥になって
旅立っていった祖父が、
生まれたばかりの赤ん坊の
真綿のような髪の毛をみて、
そう名づけたもの。

ナデルの祖父は、
山の谷間に
ひみつの畑を持っていた。
そこに種をまき、
太陽と、風と、雨と
いっしょに力をあわせて、
谷間の妖精ですらため息をつくような
美しい綿の花を育てた。
そして、収穫の季節。
祖父とナデルは、真っ白な宝物を
惜しげもなく摘みとると、
牛の背にのせ、
山をこえ、川をくだり、
村から村へ分け歩いた。

「ネル。
右の道、
左の道、
どっちにする?」
ナデルは
無二の親友であり、
家族であり、
自然界の優れた哲学者でもある、
相棒の牛に問いかけた。
「心配しなくても、だいじょうぶさ。
僕らだけで、旅はできる。
それに、僕はじいちゃんと
約束したんだ。
きっと、一人前の綿農夫になるって。
ひみつの畑には、
ちゃんとおまじないをかけてきた。
だから、
僕らが旅から帰ってくるまで
誰もあの場所を
見つけることはできやしない。
さあ、でかけよう」
ネルは空を見上げ
のんびり風の匂いを嗅ぐと、
ふごごごうと鼻を鳴らし
しっぽを右に振った。

ナデルが
ちょっと前を歩き、
ネルはときどき
ぼんやり立ち止まり、
そうやって
道を進んでいくうち、
向こうから
まるい大きな岩が
ふわふわ漂ってきた。
岩の上には
一本のガジュマルの木が生えていて、
木陰でひとりの男が
うたた寝している。
足もとに
チャルカが転がっていた。

ふたりの前に岩が止まり、
男が目を覚ました。
「ああ、また、眠ってしまった。
わたしの名前は、めそめそ男。
もとは国でも一、二を争う綿織り人。
織り上げたものはすべて飛ぶように売れに売れ、
いつのまにやら豪華な屋敷に召使い、
何不自由ない暮らしをするまでになりました。
そんなある日、王様に腕を見こまれ、
世界にふたつとない最高の綿の織物を
作らなければならないことになったのです。
でもわたしにかかれば、そんなものは朝飯前。
ところが、織りはじめてみるとあともう少しのところで、
きまって糸がよれだし、なぜだかいっこうに仕上がらない。
それでいつのころからか、わたしはめそめそ泣いてばかり。
そうして泣き疲れると、こんどは居眠りばかり。
だからこうして、岩流しの刑にあっているのです」
男はそう語ると
足もとのチャルカを拾い上げた。
「見たところ
あなたとあなたのお連れは
実に素晴らしい真綿をお持ちのようだ。
それを少し分けてもらえれば、
わたしの織物は
出来上がりそうな気がするのですが」

ナデルはネルの背中のかごから
綿を両手にすくい、
めそめそ男に分けてあげた。
するとめそめそ男は
いままでとは打って変わった
イキイキした表情になり、
するすると綿をつむぎはじめた。
「おお、思いだす、思いだす、この感触。
子どものころ父や母に習った、
父や母は祖父母にならった、
祖父母はそのまた父や母に教わった綿つむぎ。
なんてすばらしい。
わたしに欠けていたもの。
それは傲慢さに押し潰されていた、
純心だったのか」

「ありがとう。
あなたたちのおかげで、
ようやく国に帰り
織物を完成できそうだ。
これで王様との約束も
果たせます」
めそめそ男は
つむいだ綿糸を手に
顔をほころばせた。

「お礼に何か差し上げたいが、
あいにくいまのわたしには……。
おや、どうやらお連れのほうは
のどを渇かせているようだ」
めそめそ男はそう言うと、
足もとの土を、手でひとつかみ。
ネルの鼻先で、手を開いた。
すると手のひらから、
水が小さな滝のように流れ落ちてきた。
「あっ」
ナデルは驚いた。
「これは、わたしの涙です。
この涙で、ガジュマルの木も
ここまで育ったのです。
さあ、いくらでもお飲みなさい」
ナデルが見上げると
ガジュマルの葉の一枚一枚が
黄金のように輝いて見えた。
ネルは、涙の滝を口に受け、
美味そうにのどをごふりごふりと鳴らした。

見違えるようにすっかり笑顔になった
元めそめそ男と別れ、
ふたりは森に入っていった。
森の中は
大勢の鳥や虫や蛇や猿たちでぞわぞわ騒がしい。
まるで宇宙の巣のようだ
とナデルは思ったが、
一匹の羽虫に鼻をくすぐられたネルが
ひときわ大きなくしゃみをすると、
森の宇宙は、嘘のように静まり返った。
それからまたしばらく歩き、
ナデルは、名も知らぬ木の枝に生った
甘酸っぱい匂いを放つ青い木の実を
二つほどもいでズボンのポケットに入れ、
さらに上へ下へと波打つ
薄暗い峠を越え、ようやく森を抜けた。
遠くに緑でおおわれた小高い丘が見えてきた。
ネルの足が速くなった。
そこは旅の途中、
じいちゃんと
幾度となく立ち寄ったことがある。
微睡みの丘だ。
ナデルも走った。

「ごらんよ、ネル。
ここはいつ来ても、
見渡すかぎり美しい緑のじゅうたんだ。
お前もお腹が空いただろう。
ふたりでお昼にしよう」
ネルはその言葉を
最後まで聞くまでもなく
むはむはくしゃりくしゃりと草を食べはじめる。
ナデルはそれを見て笑い、
ネルの背中から真綿の入ったかごをおろすと
自分も草の上に腰をおろし、
森で採った木の実をほおばった。

風が甘い山の匂いを
ここまで運んでくる。
そのなかに、
かすかに綿の花の香りも
混ざっているような気がした。
ナデルは真綿を手のひらに乗せ、
目の高さに持ち上げて
それを眺めた。
ちいさな、淡いかたまりだった。
雪のようにも見えた。
緑の丘をつつむ青い空の中には、
いっぽうに煌々と燃える太陽があり、
もういっぽうに
ぼおっと薄い影のような月があった。
横になったネルの体にもたれ、
ナデルは手のひらの真綿に
ふうっと息を吹きかけた。
すると綿は空に舞い上がり、
風のなかでゆっくり
広がりはじめた。
そうしてやがて、
空を流れる雲になった。